音楽と社会フォーラムのブログ

政治経済学・経済史学会の常設専門部会「音楽と社会フォーラム」の公式ブログです。

第6回研究会のご報告の概要が届きました!

 日が落ちますと、いささかではありますが涼しさを感じるようになった今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。音楽と社会フォーラム事務局です。
 去る8月2日(木)、東京大学において音楽と社会フォーラムの第6回研究会が開催され、岸田旭弘さんにご報告いただきました(研究会「参加記」はこちらをご参照ください)。このほど、ご本人による、そこでのご報告「音楽のカルチュラル・スタディーズ―新しい音楽研究の視座」の概要が届きましたので、以下に掲載いたします。大変な力作をお送りいただきましたので、研究会における状況の一端がうかがえるかと思います。


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「音楽と社会フォーラム」報告要旨
『音楽のカルチュラル・スタディーズ』―新しい音楽研究の視座

神戸市外国語大学大学院博士課程2年  岸田 旭弘



 本報告の目的は『音楽のカルチュラル・スタディーズ』の概略を示し、批評を行うことであった。報告は、
Ⅰ 基本情報の紹介
Ⅱ 本書概略
Ⅲ 原書の初版と改訂版の違いの提示
という順序で行った。

Ⅰ. 基本情報

原書:
Martin Clayton, Trevor Herbert, Richard Middleton (eds.). The Cultural Study of Music ― A Critical Introduction. Routledge, 2003.

訳書(本報告使用テキスト):
マーティン・クレイトン,トレヴァー・ハーヴァート,リチャード・ミドルトン 編, 岩尾 裕 監訳,ト田隆嗣,田中慎一郎,原田理子,三宅博子 訳,『音楽のカルチュラル・スタディーズ』,アルテス・パブリッシング,2011.

改訂版:
Martin Clayton, Trevor Herbert, Richard Middleton (eds.). The Cultural Study of Music ― A Critical Introduction. Routledge, 2012.

編纂者紹介:
・マーティン・クレイトン―2012年現在、ダラム大学音楽学教授。初版出版時はオープン・ユニヴァーシティ勤務。
トレヴァー・ハーバート―元プロのトロンボーン奏者。1964−1967年、エクセター大学で学ぶ。オープン・ユニヴァーシティ音楽学教授。
・リチャード・ミドルトン―ニューカッスル大学名誉教授。イギリスアカデミー会員。
Ⅱ. 本書概略

 テキストの構成上の特徴、方針として以下の三点が挙げられる。
①一見、統一性が感じられない主題の論文を並べた。
②「文化」という概念の統一見解は示していない。
③それぞれの論文は反駁するものもあるが、大体においては、主張のトーンは相通ずる。

次に、『音楽のカルチュラル・スタディーズ』に収められた26編のエッセイ全てに共通する批判、認識は以下の通りである。
①従来の音楽研究に対する批判(自律性、客観性、音楽≠文化…)。
音楽学とその他の学問(多くの場合、社会学)との対立を乗り越える、広汎で総合的な考察の必要性。
 そして本報告では、もともと二つのパート(Ⅰ−音楽と文化[Music and Culture]とⅡ−様々な視点から[Issues and Debates])に分けられていた26の章を独自に組み替え、以下の二つのパートに大別して紹介した。
(ア)音楽学のあり方、音楽学の新しい理論構築に向けて
(イ)より具体的で、特定の視点からの音楽の考察

 まず、(ア)から見てゆくと、従来の音楽学が唱えてきた、「自律した音楽」「音楽と文化は同一ではない」という言説を問い直したのが、第3章 音楽と文化―断絶のヒストリオグラフィ(フィリップ・ボールマン)である。ここでボールマンは、少なくとも20世紀の歴史を俯瞰すれば音楽は文化と密接に結びつき、ある種の政治的な力を持っていたことがわかると指摘する。このように歴史を通して音楽を考察すれば、文化と音楽が持つ何らかの権力を見落とすことはなく、従来語られてきた音楽像とは異なるものが浮き彫りになると結論付ける。(またこの章では、「断絶」という訳語の問題も取り上げた )

 ボールマンと同様に、「自律した音楽」というスタンスを問いただすのは、トレヴァー・ハーバート 第12章 社会史音楽史である。彼は「自律した音楽」観に支配された、「作品論と作曲家中心主義」が社会史と接近しうるかを考察する。ここでは、重大な事件や歴史上の偉人を中心に歴史を構成することを是とする歴史学が、市民や文化といった視点から歴史を記述しようとする社会史と接近し、歴史学において従来の研究姿勢に対する自省が起こったことを引き合いに出し、音楽学においても同様の現象が起こりうるし、また、そうして新しい視座を獲得しなければならないと唱える。

 前二者と同様に、音楽の自律性を問い直したのが、第13章 音楽の自律性再考(デイヴィッド・クラーク)である。クラークは、彼らとは少し異なり、「音楽の自律性」に対してやや寛容な姿勢を示す。「音楽の自律性」は、例えば「ブルジョア的だ」「階級的だ」「ジェンダーの観点から見ると父権的性差別的だ」という風に批判されてきた。しかし現実を見てみると、それらの批判は正しいとは言えない。そこでクラークは、前二者とは対照的に、単純な自律性批判、自律性神話廃絶といった急進的な考察ではなく、その中庸を目指すべきであると主張する。

 次に、音楽学の「主観性」の問題に切り込むのが第11章 歴史音楽学はまだ可能か?(ロブ・C・ウェグマン)である。ウェグマンは、音楽史研究とそこに見られる主観性、研究者の自己満足的な心理への批判に一定の理解を示すと同時に、その急進的な批判に対する批判も行いながら、音楽研究の在り方を探ってゆく。つまり、歴史音楽学は、「主観的だ」「研究者のイデオロギー、願望、欲求‥を投影したものだ」として批判されてきたが、そうした欠点は何も従来の音楽学に特有のものではない。不完全さはいかなる研究にもつきものであるから、そうした批判も過ぎると、研究に不可欠な自由を失い、間違いを恐れるようになると警鐘を鳴らす。

 ウェグマンと同様に、「主観性」の問題を問うのが、第10章 主観礼賛!音楽・解釈学・歴史(ローレンス・クレイマー)である。彼は、音楽学は解釈学であると考え、従来の音楽学が頑なに保持してきた「実証主義」を批判し、逆に音楽研究における「主観性」を是とする。音楽について語ることは、音楽の意味解釈を許す場であるので、一見恣意的で(場合によっては的外れにも見える)解釈を重ねることで、間違いを恐れずに音楽の意味を問い直すべきである。これにより、「実証主義」に縛られることなく、音楽の議論が活発化し、豊かなものになる、と結論づけた。

 クレイマーの議論でも登場した、「音楽の解釈」という問題に取り組むのが、第17章 パフォーマンスとしての音楽(ニコラス・クック)であった。彼はとりわけ、音楽解釈の方法について独自の提案を行っている。彼は、パフォームされている音楽こそが音楽であり、またそれが社会的意味を演じる「スクリプト」であるという考えに立つ。そしてそのスクリプトの分析を通じてこそ、音楽の新たな意味を見いだせるとする。つまり、その考えに立てば(具体的に言うならば)、ある音楽実践・演奏会においては、どのような社会的な立場の人間が演奏しているのか?パフォーマンスの一員たる聴衆はどのような階級・職業・思想の持ち主なのか?そうした人々が集まって作りだされるパフォーマンス(空間)からどのような社会的関係・構造(特権階級的だ、あるいは大衆的な集まりだ‥)を見出し、どのような意味を導き出せるのか?を考察できるとする。こうすることで、従来の音楽学では美緒をされて来た、社会の反映としての音楽の姿が浮かび上がり、そこに社会的な意味を読み取ることが可能とするものである。

 クックと相通ずる観点から、「媒体 」という概念を通して「音楽楽」と「社会学」との接近を試みるのが、アントワーヌ・エニョンである(第6章 音楽とその媒体―新しい音楽社会学に向けて)。エニョンは、交わることがなかった音楽学的研究(=作曲家研究、美学的研究‥)と社会学的研究(聴衆、時代背景、技術等の研究)をつなぎ、両面から音楽の分析を可能にしてくれる「媒体」という概念を提唱する。ここでいう媒体とは、音楽そのものであるとエニョンは言う。そしてこの考えに立てば、音楽(=媒体)は、自律的とされる芸術創造―偉大な作曲家・レパートリー・その美的な価値―とそれを受容する社会―観客、演奏家、技術―の間をとりもち、そのどちらも音楽には欠かせない要素であると認識でき、従来からの音楽学社会学との対立を崩せる、つまり、美的な分析も社会的な分析も並立することが可能であるし、またその必要があると指摘する。

 エニョン同様、対立する理論の統合を考えるのが、第5章 音楽と社会的カテゴリー(ジョン・シェファード)だった。「音楽構造・実践はどの程度まで社会階級、ジェンダーといった社会的現実を反映するのか」という、長年大きな関心を集めてきた問いを、今日的な観点で問い直し、音楽学が持つべき視点を提示するのがこの章である。結論としては、この論点はもはや有用ではない、そしてこれからの音楽学は、対立構造にある諸研究のギャップを埋めることであり、また、新しい研究を全否定することではない。音楽(作品)を、社会的意味と美的な意味分析両面から評価するのがこれからの音楽学に求められるとする。

 エニョン、シェファードのような、学問間の対立を融和に変えようとするのが、第2章 音楽学、人類学、歴史(ゲイリー・トムリンソン)である。トムリンソンは、音楽学を再構築するなら、総合的な民族音楽学の中で位置付ける必要がある、カノンおよびカノン中心主義を全否定するのではなく、様々な学問領域や歴史的文脈で音楽を位置づけるべきであると主張する。

 トムリンソンと同じく、第14章 テクスト分析か、厚い記述か?(ジェフ・トッド・ティトン)は、民族音楽学の視点を有効活用しようと訴える。つまり、カルチュラルスタディーからは批判された、フィールドワーク的手法を用い、独りよがりの意味解釈に陥らないよう注意喚起する。民族学では、ある行為(本文では、バリ島の闘鶏が例示された)の厚い記述(意味解釈)をより豊かなものにするためにフィールドワークを行い、その関係者や地元の人々の声を収拾し反映させることが重要であるとする。そしてこの考えを音楽学の研究にスライドさせ、ティトンは以下のように結論する。つまり、実証主義・客観主義にとらわれないよう音楽行動を「解釈」するのは良いが、独りよがりにならないために、複数の声(演奏者、観衆など)を集め、反映させた上で論じる必要がある。



 今まで見てきた、音楽研究理論の話とは異なり、さらに一歩踏み込んで、具体的な観点で音楽を考察してゆくのが、(イ)より具体的で、特定の視点からの音楽の考察(テキストでは主にパートⅡに収められているエッセイ)である。

 先ずは、グローバリゼーションとも絡めながら、音楽「市場」という概念を考察する第26章 音楽と市場―現代世界の音楽経済学(デイヴ・レイン)を見てゆく。この章では、音楽は、「市場」(「商品またはサービスの価格決定をとおして受容と供給とが合致して均衡を生み出すような、抽象空間」[p.359])がなければ成立しないのか?また、音楽を語る上で、市場という概念は有用なのか?を考察する。
現代特有の様々な要因―
①需要の読み誤り:ライセンス契約ができていない、価格の問題から音楽(CD、カセット)が買えないなど、市場システムからはみ出る場所では音楽が手に入らない状況が生まれる。それゆえ、闇市場も生まれてきた。
②コンテンツの「ただ乗り」問題:ネット上でのコピーには市場原理が適用できない。
③現在の様々な音楽のほとんどは、市場と結びついていないという現実(宗教活動、軍楽隊、政治音楽…)
④地域イベントでの、金銭的報酬がほとんど/全く発生しなくても音楽活動に参与する人々の姿。
―によって、もはや市場という枠組みの中でのみ音楽を捉えることは困難になってきているとレインは結論する。

 第25章 グローバリゼーションと世界音楽の政治学(マーティン・ストウクス)は、レインと同様にグローバリゼーションの観点から、ワールド・ミュージックを問い直す。ストウクスは、1990年代から盛んに使われるようになったグローバリゼーションとワールド・ミュージックとを対比させながら、両者を巡る言説を考察し、音楽(ワールド・ミュージック)の持つ政治性を明らかにし、その再評価を行う。
 そもそもワールド・ミュージックとグローバリゼーションは同一の意味をもつものと捉えられており、現代特有の自律した現象であるとされる。またその意味は、観念・文化・国民国家というものによって規定されてきた世界(秩序)を失わせるものだと考えられている。しかしながら、人類の発展の歴史を見てみると、グローバリゼーションは現代特有のものとは言えないことがわかる。つまり、①技術・生産の移転・発達、②人の移動、③商品流通経路の確保・発達によって、政治や経済システムは変容してきたからだ。そして音楽も、①②③を背景にして拡散してきたのであり、ワールド・ミュージックも、同様である。そうしたことから、グローバリゼーションやワールド・ミュージックとは、人類の長い歴史においてその都度起こって来た転換点の中の、“最近におこった一転換点”に過ぎない。それは過去の音楽と一本の線でつながっているのであり、(西洋音楽から見て)音楽的他者という今日的な評価・認識も誤りである。

広く音楽学の中における差異(西洋音楽とそれ以外の他者という区別)を問うのが、第19章 差異を糾弾する―アフリカ民族音楽批判(コフィ・アガウ)である。アガウは、「中心的な西洋音楽」と「その他、よそ者としてのアフリカ音楽、西洋音楽に対するアンチテーゼとしてのアフリカ音楽」という構図を批判し、共通性を前提とすることで、そうしたある種差別的な差異にとらわれない音楽学を生み出すことを目指す。
ここで彼は、西洋音楽とアフリカ音楽との共通性を、以下の二つから見出そうとする。
①音楽衝動:これは、西洋音楽であろうとアフリカ音楽であろうと、音楽実践の裏には、音楽的な衝動があるはずだということ。
②音楽に対する反応:アフリカ人が古今東西様々な音楽―讃美歌、伝統的な踊り、シェイクスピアの引用、最近の音楽‥にいかに心動かされるかを考察し、その受容・感性の背後にある宗教的・政治的・倫理的な意識や社会的な背景を正しく理解すること。こうすれば、ことさら差異を強調することなく同一の地平で西洋音楽とアフリカ音楽を語れる。
 このように、不完全ではあるものの、これらの共通性(同一性)は、新しいアフリカ音楽観を構築する足がかりになるとする。この章は、「西洋音楽から見た他者」という考え方はもはややめるべきであるというアガウの強い苦言と受け取れよう。

 次に、楽器の観点から音楽の問い直しを行うのが、第23章 楽器のカルチュラル・スタディー(ケヴィン・ダウ)で、ダウは、楽器を「音を出すためのただの道具」という理解を超え、意味形成の場としての姿を浮き彫りにする。例えば、
(例1)バラにおける太鼓に込められた社会的意味:タブー、子供の遊び、からかい…
(例2)インドのサーランギが表す、ジェンダー、権力、感情の意味:男/女のために歌う・演奏すること、熱愛の感情、封建的支配、隷属…
(例3)クレタ島のリラ:個人やコミュニティ(都市、村、近隣…)の価値観や信念を反映し、形成もする。“強い男の象徴”“厳しい伝統体制を表すもの”
という例を提示する。これらを基にすれば、社会の諸相をも反映させた新しい楽器分類法も可能であると説く。しかし、その際注意すべきこととして、以下のことを挙げている。つまり、古い楽器に、現代からみた新たな解釈・意味を付け加えるには、誤った解釈など不完全さがつきまとうこと。そして、楽器が作られた当時の意味ではなく、現在の状況とそれに至る過程をさぐることが重要なのであり、楽器の意味の絶え間ない問い直し・意味の固定化を避けることが必要であること。

 続く第21章 人々とは誰か?―音楽とポピュラーなるもの(リチャード・ミドルトン)は、音楽が想定する全体性の問題を扱うもので、ポピュラー」という語の持つ包括的な意味を批判し、音楽の中に様々な差異が存在することを確認する。つまり、一口に「ポピュラー=人々の=大衆の音楽」といっても、そうした音楽には階級、ジェンダー、民族性といった社会的カテゴリーが複雑に絡み合っているので、単純な“大衆の・人々の”音楽という理解は成り立たないとする(本文では具体的な例として、ジョン・レノンの『ワーキング・クラス・ヒーロー』、スパイス・ガールズエミネムの音楽が挙げられている)。

 ミドルトンと同様に、音楽とイデオロギーの問題、とりわけ、音楽教育を通して行われるイデオロギー再生産の問題を取り上げるのが、第22章 音楽教育、文化資本、社会集団のアイデンティティ(ルーシー・グリーン)であった。彼女は、「音楽教育は、様々なイデオロギーを再生産するための装置である」と主張する。
 まずクリーンは、現代の初等‐中等音楽教育の実態を指摘する。クラシックを中心とした現代の学校教育では、クラシックの絶対性、自律性が再生産されるだけでなく、現実の社会階級も再生産されるとする。例えば、幼いころからクラシックに触れさせられてきた上流階級の子供たちは優秀な成績をおさめるが、他方、日頃クラシックに触れる機会のなかった労働者階級の子供たちは音楽教育においてもおちこぼれる、という構造の再生産である。
 さらに、ジェンダーに関するイデオロギー(男らしさ、女らしさ)は、男子は「男性らしい」楽器であるエレキギターやドラムを、そして女子は「女らしい」フルートや合唱といった器楽教育を通して再生産される。
 他にも、民族的イデオロギーの再生産も行われる。つまり、ポピュラー音楽(=マジョリティの音楽)は伝統的・民族的音楽(=マイノリティの音楽)に勝るという空気が蔓延しているため、マイノリティに属する民族の子供たちは、自らの民族音楽嗜好を仲間の前で口にすることが憚られるという事態を引き起こしているとも指摘している。これは、「マイノリティの民族は社会的地位が低い」という社会の現実を音楽教育を通じて再生産しているといえる。
 このようにグリーンは、音楽教育とは、「音楽の自律性、正典主義」という音楽的イデオロギーに加えて、階級・ジェンダー・民族といった様々な差異を再生産する装置であると主張する。


本書の総括

最後に本書の評価をしておくと、本書は、1980−1990年代における、過去のものをとにかく批判する、覆すという急進的なリベラリズムから脱却し、新しい方向性の提示、中庸の理論の構築を目指していると言える。しかしながら、26の章全体に言えることだが、理論の体系化にはまだ到達していない。よく言えば多様性がある、悪く言えば散漫で、生煮えのものも多いという印象を受ける。


Ⅲ. 付録―初版(2003)と改訂版(2012)の違い

初版は二つのパート(Ⅰ−音楽と文化[Music and Culture]とⅡ−様々な視点から[Issues and Debates])に分けられた26の章から成っていたが、改訂版はどのように編纂されているのだろうか。以下に整理してゆく。

改訂版は、初版と比べて以下の点が強調されている。
①音楽実践の物質性。つまり、テクノロジーとロケーション(空間など)、(音楽流通の)文化的装置、そして、実践者と聴衆の身体性。
②人種、宗教、感情的幸福(well-being)、音楽を通じて得られる精神的安定、心の満足、心理的作用。
③音楽と政治経済
の三点である。こうして、より多角的に絡み合うことによって、改訂版は音楽に関する以下の問題を考察する必要性に駆られた。つまり、いつ、どこで、どのようにして音楽は起こり、誰が関与し、誰の関心が働くのか?ということである。それらは、より具体的な5つのパート分けという形で反映されている(「英題:」の後ろに記した日本語は、そのパート全体の方向性、特色を表すものである)。
Ⅰ−When? Musical Histories:人間の文化がどう発展・変遷してゆくかによって影響を受ける音楽を、歴史的に記述する。
Ⅱ−Where? Locations of Music:音楽の地理的な位置、ジャンル分けの問題、そして、相互交流における音楽と音楽に対する相互的な影響について考える。
Ⅲ−How? Processes, Practices, and Institutions of Music:音楽が顕在化するための経路、テクノロジー、施設などを対象に考察を進める。
Ⅳ−Whose? Social Forces and Musical Belongings:音楽の顕在化のプロセスに参与する社会と、その結果できた音楽は誰が所有するのか?
Ⅴ−Who? Musical Subjectivities:音楽に反応し、音楽に意味を見出し、そして音楽によって構成される主観、個人、主体の問題を追及する。
 報告者は改訂版を全て熟読したわけではないので、理論の体系化が行われているのか否かはわからない。しかしながら、編纂者の一人であるリチャード・ミドルトンの序章を読んだ限りでは、まだその段階には到達していない(あるいはそこを目指していない)という印象を受けた。というのも、その中で、初版にも書かれていた「包括的な研究モデルを提示するでもなく、議論のパッチワークを提供する」という方針を示した文言が、そのまま記されていたからである。
最後に、初版に収められていた26の章に、新たに9つの章が加えられたことも重要な特徴である。さらに、初版からの26の論文に関しては、全てが編集・加筆されているということを言い添えて、報告を終了する。


付録―改訂版目次
今回は報告の付録として、初版と改訂版のコンテンツを対応させた目次を作成し、掲載した。()内の数字は、(初版掲載時のパート,章)を表している。ご参考にしていただければ幸いである。

Introduction: Music Studies and the Idea of Culture. Richard Middleton
Part 1: When? Musical Histories
1. Music and Biocultural Evolution. Ian Cross (Ⅰ,第1章)
2. Music and Culture: Historiographies of Disjuncture, Ethnographies of Displacement. Philip V. Bohlman(Ⅰ,第3章)
3. Historical Musicology: Is It Still Possible? Rob C. Wegman (Ⅰ,第11章)
4. Social History and Music History. Trevor Herbert (Ⅰ,第12章)
5. Musicology, Anthropology, History. Gary Tomlinson(Ⅰ,第2章)

Part 2: Where? Locations of Music
6. Textual Analysis or Thick Description? Jeff Todd Titon(Ⅱ,第14章)
7. Comparing Music, Comparing Musicology. Martin Clayton (Ⅰ,第4章)
8. The Destiny of “Diaspora” in Ethnomusicology. Mark Slobin (Ⅱ,第24章)
9. Globalization and the Politics of World Music. Martin Stokes(Ⅱ,第25章)
10. Contesting Difference: A Critique of Africanist Ethnomusicology. Kofi Agawu(Ⅱ,第19章)
11. What a Difference a Name Makes: Two Instances of African-American Popular Music. David Brackett(Ⅱ,第20章)
12. Music, Space, and Place: The Geography of Music. Adam Krims (初登場)
13. Music and Everyday Life. Simon Frith(Ⅰ,第7章)

Part 3: How? Processes, Practices, and Institutions of Music
14. Music, Culture, and Creativity. Jason Toynbee(Ⅰ,第8章)
15. Musical Autonomy Revisited. David Clarke(Ⅱ,第13章)
16. Music as Performance. Nicholas Cook(Ⅱ,第17章)
17. The Cultural Study of Musical Instruments. Kevin Dawe (Ⅱ,第23章)
18. Music Education, Cultural Capital, and Social Group Identity. Lucy Green (Ⅱ,第22章)
19. Music Technology, or Technologies of Music? Bennett Hogg (初登場)
20. Music and Material Culture. Will Straw(初登場)

Part 4: Whose? Social Forces and Musical Belongings
21. Music and Social Categories. John Shepherd (Ⅰ,第5章)
22. Music and Mediation: Toward a New Sociology of Music. Antoine Hennion (Ⅰ,第6章)
23. Music and the Social. Georgina Born(初登場)
24. Locating the People: Music and the Popular. Richard Middleton(Ⅱ,第21章)
25. Music and the Market: The Economics of Music in the Modern World. Dave Laing (Ⅱ,第26章)
26. Music, Sound, and Religion. Jeffers Engelhardt (初登場)
27. Music, Race, and the Fields of Public Culture. Ronald Radano (初登場)
28. Music, Gender, and Sexuality. Fred E. Maus (初登場)

Part 5: Who? Musical subjectivities
29. What’s Going On: Music, Psychology, and Ecological Theory. Eric F. Clarke(Ⅰ,第9章)
30. Musical Materials, Perception, and Listening. Nicola Dibben (Ⅱ,第16章)
31. Music, Experience, and the Anthropology of Emotion. Ruth Finnegan (Ⅱ,第15章)
32. Towards a Political Aesthetics of Music. David Hesmondhalgh (初登場)
33. Music and the Subject: Three Takes. John Mowitt (初登場)
34. Of Mice and Dogs: Music, Gender, and Sexuality at the Long Fin-de-Siecle. Ian Biddle (Ⅱ,第18章)
35. Subjectivity Unbound: Music, Language, Culture. Lawrence Kramer(Ⅱ,第10章)


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 いかがでしたでしょうか。何かご意見等ございます場合は、本ブログ右下のメイルフォームよりお願いできればと思います。岸田さん、まことにありがとうございました。