音楽と社会フォーラムのブログ

政治経済学・経済史学会の常設専門部会「音楽と社会フォーラム」の公式ブログです。

第5回の研究会が開催されました!

 すっかり夏めいてまいりましたが、いかがお過ごしでしょうか。音楽と社会フォーラム事務局です。

 去る5月19日(土)、東京大学において、音楽と社会フォーラムの第5回の研究会が開催されました。以下、事務局による「研究会参加記」を書き綴ってみたいと思います。

 五月祭開催期間であり(まったく気づきませんでした。すいません!)、(よくいえば)大変賑やか(悪くいえば…)であった東京大学に、16名もの方々にお集まりいただきました。今回もはじめてご参加いただいた方々が数多くおられました。まことにありがとうございます!
 14時を少し過ぎた頃から、自己紹介を経まして、和田ちはるさんのご報告が始まりました。テーマは「アドルノ音楽社会学 ――『不協和音』と『音楽社会学序説』を読み返す――」。読者によってはきわめて難解とされるアドルノの2冊の著書の内容を大変詳細にご報告いただきました。以下、ご本人によりますご報告の概要を掲載いたします。

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 本発表では、Th. W. アドルノの『不協和音――管理社会における音楽 Dissonanzen: Musik in der verwalteten Welt』と『音楽社会学序説 Einleitung in die Musiksoziologie』を読み返し、今日の視点から見てもなお示唆に富むアドルノ音楽社会学の基本的な考え方を概観した。テクストの分量と視点の広さから、個々の論点に踏み込んで検討することはできなかったが、アドルノの音楽と社会の関係のとらえ方の全体像を確認するよい機会となった。
 『不協和音』には、管理された社会において芸術の自由と自発性から社会的な基盤を奪う諸条件下で音楽に生じたことを扱う、ということを共通項に、1930年代後半から1960年ごろまでに発表された論考が収められている。
 現在進行している「芸術の退化」という現象は、人間を拘束しようとする全世界的な傾向に由来するものであり、それは特定の国や政治体制にのみ限定されるものではない、とアドルノは述べている。資本主義社会における音楽の商品化・規格化とそれに伴う聴取の退化は、強制的な供給物の受動的な消費、というスタイルが大衆による自発的な要求に転換することによって増幅されてゆき、結果的に大衆の全般的な意識を現状の肯定と変化の忌避というところに固着させる。その転換の動因は、アドルノによれば、大衆の「独占的な生産を前にした無力感」である。それを解消するために彼らにできることは、そこに積極的に自分を関連させること、つまり彼らが手にするものが、自ら求めたものである、ということにする以外にはなかった。音楽の物神的性格はこうして大衆自身によって偽装させられる。
 他方、東欧諸国では、芸術にポジティブで調和的であることを要請することによって、硬直化した社会の現状を肯定させる。本来自由であり、体制による生活の拘束に反抗し、自由な主体である人間像をこれに対置するはずの芸術は、行政の管理下に置かれることで、その完全な合目的性のゆえに無意味になるのであり、結果的に、社会的な疎外および個と全体の矛盾の存続を固定化するように作用する。
 この世界的な個人の社会的疎外はしかし、音楽上の青年運動にみられるような個人の共同体への組み入れによっては解消することができない。集団の用意する幸福は自己の抑圧に同化するゆがんだものであるし、音楽は自己の運動法則に従うのでなければ、社会にとって望ましい作用を及ぼすことはできないからである。アドルノは、教育の現場に第一に求められるのはこのような「音楽自身の法則」を理解させることであるとして、音楽教育が大衆心理や集団活動、実用性と応用可能性といったものに熱心になる現状を批判する。
 音楽においても、伝統は反発されるところにこそ生き延び、過去のものは打ち破られたときに実質的にその時代における形を与えられるのであって、その意味では、モンテヴェルディーからシェーンベルクまで変わることのなかった「音楽的意味」のカテゴリーから自由になることを目指した新音楽は、真の伝統の継承者であった。「無意味」なものはここでは、「意味の否定」としての意味を持っていたからである。しかし無意味性そのものがプログラムとして機能し、手段を組織化することが目的と化してしまっては、新音楽は老化したといわざるを得ない。
 こうしたアドルノの見解は、それらが提出されてから数十年が経過し、社会的な状況がもはや当時と同一ではないことを考慮しても、多くの点でなお十分に妥当する。彼の議論で前提とされているのはドイツの音楽史観と音楽美学であるが、そこを立脚点としつつ、音楽を含む社会全体へと視線を広げてゆくことによって切り開かれる数々の側面は、現在でもなお、検討の余地のあるものばかりである。
 『音楽社会学序説』では、経験主義社会学と関連する音楽分野の理論と実地調査の間の相互連関を促進させるべく、12回の講義に合わせて設定された12のトピックスに沿って、生産的な問題提起が試みられている。音楽社会学は、社会及びその構造についての自覚や音楽現象に関する知識だけでなく、あらゆる含意を含めた音楽そのものの完全な理解を必要とする、とアドルノの要求は極めて高いが、二つの分野の間にあって、両者に欠けている視点を補うものとしてのこの分野の意義もまた、それにふさわしく大きなものである。
 ここでは、社会に属している個体としての音楽聴取者と音楽そのものとの関係を問うための聴取の類型化に始まり、娯楽音楽の社会的機能、歴史および現在における音楽のイデオロギー的な側面、音楽のジャンルのもつ歴史的な背景と今日の事情、音楽活動の諸相と問題点、世論と批評といった論点で、音楽と社会とのかかわりを論じる際の切り口が、具体的な諸問題とともに提示されている。
 アドルノによれば、芸術作品の総体を作り上げているものは社会の諸部分以外ではあり得ないのであって、それらの真実内容にはそれらが持つあらゆる力と矛盾と困難とが集められている。そのため、芸術作品における社会的なものの認識には、芸術作品自体の自律性および内在的論理が含まれなければならない。これは社会規範から離れることで社会的な威厳を獲得する一方で、作品の真実内容、作品の美的質は社会的な真実に収斂する。
 しかし社会は直接的に芸術作品の中に引き継がれるのではなく、必ず媒介を経て芸術作品の中に入り込む。最後の講義では、この媒介のあり方がテーマとなっている。音楽と社会の媒介はその外部でではなく内部でおこる。芸術作品の社会に対する関係はライプニッツモナドのようなもので、芸術は窓もなく社会を表象している。音楽において精神を先へと駆り立てる合理性原理は芸術外的な社会的合理性の展開であり、それが音楽の中に現れるのである。このことを洞察するためには、精神の特殊な部分に、分業で互いに疎外されたあらゆる領域と同様に現れてくる、社会の全体性を省察するしかない、とアドルノは述べている。


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 1時間をゆうにこえるご報告の後、休憩をはさみ、15時55分頃より討論が始まりました。
 討論の内容は、ご本人よる概要を掲載させていただきましたので割愛させていただきますが、クラシックという音楽の現状、将来に関するご意見、ご提言をはじめ、非常に多様な角度からのご発言、論点提起が数多くなされました。今回はとくに、はじめてご参加いただいた方々からの積極的な発言が多くみられ、私どもも教えられること大でした。
 クラシックからいささか距離があると捉えられる場合の多い音楽を主に聞いてきた筆者には、ついていけないほどの高度な議論が展開する局面もみられました。それにもかかわらず、和田ちはるさんの懇切丁寧なご報告をお聞きし、また非常に詳細なレジュメを手にし拝見しまして、難解なアドルノの著を一気に読破し、理解したような感(錯)覚をおぼえました。大変なお仕事ではないかと感じた次第です。
 ご報告の内容のなかでとくに興味を惹かれたのは、分類された「音楽聴取者」についてのお話です。自分はどのような「音楽聴取者」であるのか。こうしたことをひたすら自問自答しておりました。ご出席者のみなさまはいかがでしたでしょうか。お忙しい中、ご報告いただきました和田ちはるさん、参加していただきましたみなさま、本当にお疲れ様でした。

 討論の後、今年の政治経済学・経済史学会秋季大会で行うパネル・ディスカッションの最終案について話し合いがなされました。内容・陣容はほぼ固まったように思われますが、決定事項等については、あらためてとりまとめましてご報告させていただきます。

 また次回の研究会についてですが、暫定的ですが、8月第1週の土曜日、8月4日の14時より、大東文化会館において開催する予定となりました。岸田旭弘さん(神戸市外国語大学)にイギリスのカルチュラル・スタディーズについてのご報告をお引き受けいただきました。詳細が決定次第、本ブログまたMLでお知らせいたします。

 恒例の懇親会にも多くの方々にご参加いただきました。五月祭開催中ということで多くのお店が混んでおりましたが、どうにか「いつもの店」に席を確保することができました。研究会の延長線上にある討論にはじまり、さまざまな「音楽」談義に花が咲きました。大いに盛り上がり、幾人かの方々は二次会に向かわれたようです。みなさま、夜遅くまでまことにありがとうございました。