第23回研究会の内容をご紹介します! ―その1:第1報告について―
2022年になりました…
新年の今日この頃、みなさま、いかがお過ごしでしょうか
新年のご挨拶はまたの機会とさせていただき、今回は、2021年11月7日にオンラインで行われました、第23回研究会でのご報告(第1報告)の内容をご紹介させていただきます。
井上貴子さん(大東文化大学)による「始動!!「病と死の音楽」プロジェクトについて」と題したご報告でした。
以下にご報告の要旨を掲載いたします。
井上さん、まことにありがとうございました!
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音楽と社会フォーラム 2021年11月7日(日)
始動!!「病と死の音楽」プロジェクト
なぜ今、「病と死の音楽」というプロジェクトを開始するのか。主たる理由は二つ、第一に、新型コロナパンデミックによってライブハウスが大きな打撃を受けたことである。音楽には、人とのコミュニケーションを重視する音楽と重視しない音楽がある。すなわち、聴衆を必要とする音楽と必要としない、されない音楽である。後者はパンデミックとは無縁なので、打撃を受けることはないはずである。また、連日のようにメディアは病と死を話題にするようになった。私の人生の中でこれほどまでに病と死について考え、語ったことがあっただろうか。第二に、インドでケガレの象徴である葬式の太鼓を受け持つダリト(被抑圧者、不可触民)の音楽に関心をもったことである。人間にとって病や死は避けられないにもかかわらず、彼らは「健全」を求める社会から抑圧され、排除される存在となっている。
さて、「病と死の音楽」でネット検索すると、最も多くヒットするのが音楽療法(心を癒す、ケアに役立つ、広い意味でのヒーリング音楽も含む)である。その背景にあるのが、音楽は「健全」な社会に役立に立たなければならないという言説である。厚生主義に基づき音楽と効用を結びつける発想に加え、今日の自然科学分野では、人・動物・生態系を一つの健康として捉えるワンヘルスという考え方が提唱されている。健全でないものは「呪われた部分」(バタイユの全般経済学における蕩尽)とみなされるのであろう。新型コロナ禍でのライブハウスたたきの背景には、健全な社会という発想、それを強化する日本社会の同調圧力、有用でなければ不要という厚生主義が存在するように思われる。
次に多いのが、大作曲家の病と死にまつわる物語である。音楽に造詣のある医療関係者の著作にはこの手のものが多い。たとえば、ジョン・オシエー『音楽と病―病歴にみる大作曲家の姿』(菅野弘久訳、1996、法政大学出版局)、小松順一『大作曲家の病跡学―ベートーヴェン,シューマン,マーラー』(2017、星和書店)、小林聡幸『音楽と病のポリフォニー 大作曲家の健康生成論』(2018、アルテスパブリッシング)等がある。
三番目が病と死にまつわるクラシックの名曲である。代表的な作品としては、ペストの惨禍に触発されたサンサーンス「交響詩 死の舞踏」、病気・貧困・戦争で死にゆく者たちを描いたムソルグスキー「歌曲 死の歌と踊り」やショスタコーヴィチ「交響曲第14番 死者の歌」などがある。また、多くの著名作曲家が葬送曲やレクイエムなどを作ってきた。
本プロジェクトは「病と死」そのものをテーマとする音楽に焦点をあてる。その意味で真っ先に私が思いつくのは、「不健全」なポピュラー音楽である。例えば、ロックはそもそも「反体制」的であり、「不健全」「反健全」を表象するものが多い。特に、デスメタル、ブラックメタル、ゴス、ポジティブパンク等のヘヴィメタルやパンクのサブジャンルには病と死に直接関係する曲が目立ち、精神異常者、悪魔の呪い、地獄、殺人鬼等が頻繁に登場する。
「売れる」ことを第一義とするJ-POPには病や死を直接扱ったものは少なく、死を扱っていても追悼や死別の悲しみといった、生きている人の心を癒す曲が中心である。しかし時には、鬱の時に共感できる曲、聴くと死にたくなる曲が大ヒットしてしまうことがある。例えば、鬼束ちひろ「月光」(2000) はダブルプラチナを達成した。また、「売れる」つもりがないのに大ヒットした曲の例としては、耽美な死の情景を描いたL'Arc〜en〜Ciel「花葬」(1998)がミリオンを達成した。病と死を直接扱ったホラー映画にも音楽は欠かせない。ホラー映画は「健全」ではないが、現実でもないために人々は安心して鑑賞する。元来ホラー映画のために作られたわけではないが有名になった例としては、『エクソシスト』のテーマに使用されたMike Oldfield “Tubular Bells” (1973)が思い出される。
さて、プロジェクトをスタートするにあたって、養老孟司『死の壁』(2004)を読み直してみた。養老は、かつて死はもっと身近なものだったが、近代的都市では死を前提しない街づくりがなされていること、生と死の境の定義について、死の瞬間は自己認識できず思想としての死とモノとしての死体が存在すること、近代的自己の確立の過程で、一人称の死、二人称の死、三人称の死が存在することを指摘している。
本プロジェクトでは、実在の作曲家や音楽家の病と死と作品との関係や、広い意味での音楽療法的なものは取り上げない。一方、積極的に取り上げるのは、パンデミックの実際など病と死の現実を直接描いた音楽と、病と死の恐怖を増幅させることを目的とした音楽である。すなわち、プロジェクトの目的は、「健全な音楽」という言説を脱構築し、「健全な社会」という理念に疑問投げかけ、批判を恐れず「健全」が強化する同調圧力と制限と生き難さに抗うことである。これによって、かつて存在したであろう心身の一体性と生死の継続性の回復を希求したい。