第15回研究会の内容をご紹介します! その2
前回の記事に引き続き、2016年7月9日(土)に東京大学本郷キャンパスで行われた、瀬戸岡紘さん(駒澤大学)によるご報告「典型的な近代芸術としてのロマン派クラシック音楽の形成と終焉」の内容をご紹介します。
前回の記事では、ご報告におけるのメインのレジュメを掲載しましたが、今回は、ご報告の際に配布された4種のサブのレジュメを掲載いたします。あらためまして、ご報告者の瀬戸岡さんに感謝を申し上げます。本当にありがとうございました!
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クラシック音楽を深く学ぶことは 最高峰の芸術を極めること
――クラシック音楽講座 全50回 をひとまず終えて――
瀬戸岡 紘 (FSS会員・理事)
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クラシック音楽は,人類のつくりだした芸術としては「最高度の芸術」といってよいと思われます。そういう理由は,私がクラシック音楽を好きだからとか,他の芸術の価値がわからないから,などということではありません。
クラシック音楽は,まず第1に,人類の到達した最高度の社会と考えられる近代社会に生きる自立した個人の心を表現しようとします。自立した個人とは,迷わずまっしぐらに突き進むような人ではなく,「これでいいのか,いけないのか,それが問題だ(To be, or not to be, that is the question ―― シェークスピア)」とつねに考えながら生きていく人のことです。たとえばベートーヴェンのピアノソナタ第14番(通称「月光の曲」)の第1楽章は,短調から始まったかと思うと長調へ,でもすぐまた短調に,さらにちょっと長調になったかと思うと短調に,といった具合に変化していきますが,「これでいいのか,いけないのか・・・」と悩む近代的な個人の心のうちを見ごとに表現しているといえますね。
クラシック音楽は,第2に,人類の到達した最高度の社会としての近代の思想や哲学とあい通ずる表現の仕方をとっていることが多いといえます。たとえば「ソナタ形式」とは,第1主題が出てきたあと第2主題が現れ(提示部),両者があいまみえつつ展開し(展開部),最終的に最初の主題と似ているようでありながら最初の主題そのものではないもの(両者の統合によって生まれてきたもの)が現れて(再現部)終わっていきますが,それは近代哲学の最高峰としてのヘーゲル哲学でいわれる弁証法的展開(正 → 反 → 合)の音楽版そのものです。ソナタ形式を最もうまく活用した作曲家はベートーヴェンでしたが,なんとベートーヴェンとヘーゲルとは,同じ年(1770年)に,同じようなところ(ライン川中流右岸地方)で生まれ,同じ歴史的大変動(フランス革命)を横目で見ながら育ったのでした。感じとったことを,ヘーゲルは哲学の大著に,ベートーヴェンは音楽の大作に結晶させていたのですね。
クラシック音楽は,第3に,何をもって表現するかという点でも他の芸術を圧倒しています。近代になって急速に発展した楽器(弦楽器,管楽器など)ばかりでなく,近代に誕生した楽器(ピアノなど)が音楽をつくる主要な手段となっています。第4に,その規模も圧倒的です。たとえば100人規模の合唱など,前近代では考えられない芸術活動でした。まして100人超のオーケストラについては言うまでもありません。そればかりではないのです。第5に,この100人超の演奏者たちも,芸術を織りなすからには,たった一人の誤りも,手抜きも,出しゃばりも,いっさい許されません。聴衆からすれば,そうした些細な誤りは,すぐわかってしまうからです。自立した自由な個々人が集合してつくる芸術ながら,全体の均整が完全にとりきれていないと成立しない ―― これほど神経を集中してつくらないと成りたたない(精緻さが要求される)芸術は,世界に古今東西あまたある芸術(美術,建築,ひろくは文芸をふくめて)にはなかったことです。
クラシック音楽を楽しむことは,すでにそれだけでも,われわれの心を豊かにしてくれるものであることは言うまでもありませんが,この芸術を深く学ぶことが人類の創造してきた幾千万の芸術のなかの最高峰を極めることでもあるのだということを知れば,それが現代に生きるわれわれにとって,いかに精神的栄養になるものであるか,理解できることでしょう。そのことをシューベルトについて,もう少し深読みしてみましょう。
シューベルトは,近代人の心を近代思想に支えられながら作曲したベートーヴェンとほぼ同じ時代(没年はベートーヴェンが1827年,シューベルトが1828年)に,おおむね同じ場所(ヴィーン)で,同じ思想の洗礼(啓蒙思想と市民革命の政治思想)を受けながら作曲活動をしました。だから,シューベルトはベートーヴェンと同じように,あるいはそれ以上に民主主義者でした。たとえば,多くの歌曲は歌い手とピアノ奏者とが一体になって演奏するようにできていますが,特徴的なことはピアノ奏者が歌い手の伴奏者(脇役)として演奏するのではなく,歌い手と対等の演奏者として登場するように作曲されていることです。歌い手は歌い手として最も美しく歌を歌いあげ,ピアノ奏者はピアノ奏者として最も美しくピアノを弾きあげる ―― ということは,自立した個々人は最大限自分の個性を発揮しつくす ―― のですが,それでいて両者が一体となったとき,それぞれが別々に演奏するときには考えられなかったような極上の美しさが醸しだされるようにできているのです。ここには,個々人の「自由」だけではなく,相互に「平等」で,かつ「友愛」の心で繋がれているべきだとするフランス革命の理念(Liberté, Égalité, Fraternité)が体現されています。あるいは,近代的な感覚をもつ男女は,男は男として最も雄々しく,女は女として最も美しくあり,その両者が結合したとき最上の人生が描きだされるのと同じようなものだといってもよいでしょう(この点については当機関紙第46号拙稿参照)。
シューベルトの近代的民主主義の考え方は,さらに,たとえばピアノ五重奏曲「ます」第4楽章に一層よく表れています。ヴァイオリン,ピアノ,ヴィオラ,コントラバス,チェロの五つの楽器が,順次変奏していく主旋律を弾き(主役になり),他の者は主役でないときはそれぞれ伴奏者になってゆき,最後に全員がふたたび主役になって終わっていくのです。「みんな大切な人,そしてみんなで支えあっていこう」という近代初期の政治理念が芸術の形をとって訴えかけられているのです。当時の政治思想に精通している人なら,それを聴いたとき,その美しさとともに,背後に秘められた高尚な思想を読みとり,得もいわれぬ感動にひたることになるに違いありません。ちなみに,美しいメロディーの背後に高い思想や主張が隠された作品は,広義のロマン派を中心にたくさん存在しています。
ところで私は,長年にわたり「クラシック音楽講座」をつづけてきました。始めたきっかけは,最近の大学院生たちが,就職難と研究面での競争激化に直面して自分の専門だけしか勉強しなくなっている傾向をなげいてのことです。専門のことしか知らない(できない)人を,私は「専門家」といわず「専門バカ」といっています。世の中に「専門バカ」が増えることは大変危険なことです。なぜなら,そういう人は往々にして大真面目な顔をして本筋からはずれたようなことを言ったり,ときとして間違ったことを言ったりするからです。大学院生たちには,いろいろなことができる(わかっている)からこそ,そのこともよくできる(わかる)本当の意味での専門家に将来なってほしい,そのためには,さしあたり上記のような深い内容が隠されている芸術としてのクラシック音楽をたまには勉強してもらうのもいいのではないかと考えてのことでした(実際には3か月に1回,年4回程度実施してきました)。
始めた当初は,経済学を学ぶ数人の大学院生だけが相手でしたが,噂を聞いた人たちのなかから参加したいという人も現れ,「どうぞ」といっているうちに,20人を超え,50人を超え,100人を超え,最終回の第50回(2月13日)には,私の大学での最終講義を兼ねたこともあって600人を超える人が参加してくださいました。全50回でとりあげた内容もバロックから20世紀の作曲家までほぼすべての作曲家と多彩な作品の紹介にわたっただけでなく,とくにそれらの作品の社会的・歴史的背景にまで深入りしてみることを重視してきました。
この「クラシック音楽講座」は,私の勤務先の大学の教室を会場として実施してきましたが,定年退職につき従来のように教室を使用できなくなるため,ひとまず終了します。しかし,多くの参加者から継続実施のご要望を受けているため,何らかの形で今後とも実施できればと考えています(本稿は,一部,同講座最終回の内容にもとづいています)。
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クラシック音楽講座で これまでにとりあげてきたテーマは,以下のとおりです
第1回〜第20回ごろまでは資料の配布がなかったため,正確な記録はのこっていません(当初の参加者は数人の大学院生 等 ―― 大学院生が「将来 研究者をめざす以上,幅広い教養,とくに深い文化的教養をもっていなければならない」 とのポリシーから開始したもの)
第21回 〜 第26回ごろまでは,資料として楽譜のコピーを配布していた程度なので,講座の内容の記録はのこっていません(当時の参加者数は 十数人〜20人強)。
第27回 ショパンとショパンのバラード
第28回 ピアノは歌う
第29回 近代日本の歌曲
第30回 プロテスタントの讃美歌
第31回 リストとそのピアノ曲
第32回 フランスとクラシック音楽
第33回 アメリカ建国の理念とクラシック音楽
第34回 ロシアとクラシック音楽
第35回 ヨハン・セバスティアン・バッハ ―― 一生を教会にささげた人生とその音楽
第36回 クリスマスとクリスマスの音楽
第37回 シューベルトのピアノ曲
第38回 バロック音楽 : その幕開けから最高峰までを概観する
第39回 ラフマーニノフの音楽を解析する
第40回 ロマン派の時代とブラームスの音楽
第41回 市民革命の時代とベートーヴェンの音楽
第42回 モーツァルトの音楽はなぜこんなに美しいのか?
第43回 ヴィーンはどのようにして「音楽の都」になったのか?
第44回 ピアノ芸術の魅力 ―― ピアノの名曲をとおして)
第45回 東欧・北欧の名曲をたずねて ―― いわゆる「国民楽派」について考える
第46回 イギリスとクラシック音楽 ―― 近代的市民にとっての芸術音楽について考える
第47回 ロマン派とは何だったのか?
第48回 チャイコフスキーとバレエ音楽――なぜロシアでこんなに美しい芸術が生まれたか
第49回 歌曲と合唱曲 ―― 民謡・アリア・歌曲・合唱曲 をめぐって ――
(最近の参加者数は 100人以上 ―― ほぼ3か月に1回の割合=年4回程度 実施)
■■■■ クラシック音楽講座 第50回 をかねた 瀬戸岡 最終講義の すべてを いつでも ご覧になる / お聞きになる ことが できます■■■■
さる2月13日におこなった駒沢大学における私の最終講義のすべてをご覧になる / お聞きになることができます。 当日はお仕事や先約や突然の用事のために来られなかった方々,または,聞き落とした / もう一度聞いてみたい という方々,ぜひ ユーチューブを開いてみてください。
方法は簡単 ―― インターネットに 「瀬戸岡」 「最終講義」 の2語を入力して検索すれば画面と音声が出てきます。
全体は 3本の論説と 演奏の 計4本 からなっています。
1.すべての戦争は 国内矛盾の対外転嫁として 引きおこされる―― 平和をまもるためには国内の小さい問題を放置しないことが大切
2.日本が「和の国」になったのは 島国で 気候が温和だから では ない―― 日本古代史には学校で教えられていない苦難克服の長い過程があった
3.優れた芸術は 雑念のない 自由な個々人によって 生みだされる―― 人類の創造した 最高の芸術と考えられる クラシック音楽 のような高度な文化遺産が生まれにくい時代,それが現代である
演奏 : サラサーテ : ロマンス / ベートーヴェン : ヴァイオリンソナタ 「春」
(ピアノ 井手麻理子 / ヴァイオリン 井上春菜 ―― 瀬戸岡ゼミ卒業生)
シューベルト 「音楽によせて」,「冬の旅」から, ほか (テノール 秋島光一)
フィンランディア ほか (合唱 駒沢大学合唱団)
瀬戸岡 (作詞・作曲) 「白駒の思い出」 (合唱 駒沢大学合唱団)
全部 見る/聞くと3時間45分ほど (休憩込み) かかりますが,各部分は40分程度ですので,何回かに分けて ご覧/お聞きになってください。 とくに 最後の演奏は 美しくも 熱演ですので,最後までご覧 / お聞きくださることをお勧めいたします。
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■■■■■■ ベートーヴェン の 交響曲に よせて ■■■■■■■
■ ベートーヴェン 交響曲 第3番 『英雄』
ベートーヴェンは,ライン川の右岸地方の生まれ,18歳のとき対岸のフランスで革命が始まり,28歳のときフランスはナポレオンの時代に入りました。芸術家として育っていく最も多感な時代に,すぐ近所に起こったこれらの事件は,ベートーヴェンの作品に絶大な影響を与えないではいませんでした。
フランス革命がめざしたことは,王や貴族の時代を終わらせ,かわって近代的な市民の時代をつくること。さて,近代的な市民とは,どういう人のことでしょうか? 「自立した人」のこと,すなわち「自分で考え」,「自分で行動し」,「自分で責任のとれる人」のことです。「みんな,みんな,市民はそういう人になろう」,「そのことをとおして王や貴族の時代を終わらせよう」ということは,当時のフランスばかりでなく,ライン川をはさんだドイツでも高い自覚をもった人たちの大きな目標になっていました。ベートーヴェンも,ほかでもなくそのようなことに共感をもったひとり。
ところで,当時の新興市民たちのなかには,ナポレオン・ボナパルトがフランス革命の理念を体現しているのではないかとの期待がありました。ベートーヴェンの交響曲第3番にもそのような期待から,もともと「ボナパルト」という名が付されたといわれますが,いろいろ思索をめぐらせたあと最終的に「英雄」という名前に落ちついたようでした。ではその意味は何か? ベートーヴェンにとってこの作品に心の底から賭けた願いは,「ひとりひとりの市民が自立した立派な人になる」こと,そして「そういう人は英雄というに値する」ことであり,さらに当人の意思さえあればだれでも英雄になれるのだから「市民はひとりひとり英雄たれ」と呼びかけることだったと考えられます。
このような壮大な思想を秘めた交響曲は,交響曲をたくさん作曲したハイドンやモーツァルトにもなかった前代未聞のこと。そうだからというべきか,演奏するオーケストラの規模といい,演奏時間の長さといい,のきなみ従前の交響曲の倍といっていいような前代未聞の大作。まさに画期的な交響曲です。
第1楽章は,自立しようと起ちあがる市民の姿を描いています。もちろん目前には困難も立ちはだかる。でも,新興の,それゆえ,たとえ年配の人でも気持ちの上では若さに満ちている,そんな新興市民たちの壮大な決意と強い行動力が,フルオーケストラの熱演による芸術となって聴く者に訴えかけてきます。指揮者の根本さんは,とくにその点では,抜群の能力が発揮できる人です。だから,この楽章を聴くだけで,ひとびとは「そうだ,オレも起ちあがろう」,「わたしも頑張ってみるわ」という思いにかられますよ。
しかし,人生は甘いものではありません。期待は裏切られ,少なからぬ人は挫折する。第2楽章は,そういう健気ながらも悲嘆にくれることもある市民の心情を「葬送行進曲」という形を借りながら描いています(当時のベートーヴェンにとって葬送すべき人はいなかったようですから,この楽章は葬送の様子を描いたものではないといっていいと思われます)。この楽章を聴く人は,「そうだ,オレにもこんな気持ちになることはある」,「わたしにもあったわ」と,たまらぬほどの深い共感を抱くことになると思われます。第2楽章は,途中で微かな希望とも思われるメロディーが登場しますが,すぐに掻き消されます。聴く者の共感は,さらに,さらに深まる――そこにベートーヴェンの魅力があります。それまでの交響曲の第2楽章の多くが穏やかな曲だったことを考えると,ベートーヴェンが常識をこえてでも,自立した人間が激しい苦悩を背負うことのあることを,自分の体験から語ってみたかったことがわかるような気がしますね。
では,第3楽章は? いえいえ,ここから先は,本日の賢明な聴き手としてのみなさん,ご自身で考えてみてください。第4楽章も,ですよ。とくに終楽章は,ベートーヴェンが示唆したかったことは大きいようですから,探ってみてください。
すぐれた芸術家はいちいち説明しません――ただ「この作品から感じとってください」というだけで。ベートーヴェンがこの交響曲にどんな期待を込めたか,何も語っていませんが,それは賢明な聴き手のみなさんを信じていたからなのですから。
■ ベートーヴェン 交響曲 第7番
「あなたの目指してみたい人生って,こんなもんじゃない?」というベートーヴェンの声が聞こえてきそうな交響曲,それが第7番です。
第1楽章は,近代的な生き方に目覚めた人びとを喜びの世界へと誘ってくれるかのように予感させる長い序奏のあと,みんなが喜びに沸きかえっているような主題(第1主題)が登場してきます。そのあとに登場する第2主題は,通常なら第1主題と対照的なのが普通ですが,ベートーヴェンのこの作品では,ここでも喜びを別の形で謳っているかのよう。全体にとてもリズミカルで切れ味がいい(それは終楽章まで一貫している)。こうして展開していく第1楽章は,まだカネとか地位とか名誉とか時間などにとらわれることの少なかった新興市民たちの将来への素朴な夢を描いてみせ,聴く人たちに勇気をあたえる曲だといえます。
ところが,いえ,むしろ,そのためにというべきでしょうか,第2楽章は一転。ベートーヴェンは,もうひとつの「葬送行進曲」を書いたのではないかと考えてみたくなるような曲です。シンプルな旋律の高揚していく様は,人間の避けてとおれない苦悩のエスカレートそのもののようです。途中で明るい旋律もでてきますが,すぐに消え,苦悩は増幅します。ここでも,「あなたのこれまでの人生って,こんなもんだったでしょう?」,「オレの人生もそうだったんだ」というベートーヴェンの声が聞こえてきそうです。
では第3楽章は? ここでも,交響曲第3番のばあいと同様,賢明なみなさんご自身が考えてみてください。もちろん第4楽章も。
ともあれ,フランス革命後のヨーロッパ。ここを転機に,いろいろなことが変わりました。演奏会の聴き手も,それまでの貴族から新興の市民が中心に。芸術家,なかでも音楽家は,自身の作品を理解してくれる人がどんな気持ちをもって聴いてくれるか,たいへん気になるもの。そうである以上,音楽をつくりだし演奏する人たちも,ベートーヴェンのころからは,新興の市民の心情を察しながら,市民に代わって芸術作品を創作するようになりました(そういう一連の音楽を「ロマン派」音楽といいます)。
自立した近代的な市民とは,「迷わず,まっしぐらに突進・・・」というような人ではありません。いつも「これでいいのか,それとも・・・」と迷いながら,いえそればかりか,迷った末に間違えてしまって落ち込むこともしばしば・・・,でも展望を切り拓いて前進しようとする・・・というような人のことです。ベートーヴェン自身もそういう人でした。交響曲第7番は,ベートーヴェンが自身で体験してきたことをもって,市民に問いかける,まさに不朽の名作だといえます。
(2016年7月 ♢ 瀬戸岡 紘)