音楽と社会フォーラムのブログ

政治経済学・経済史学会の常設専門部会「音楽と社会フォーラム」の公式ブログです。

第18回研究会の内容をご紹介します!

 2018年となり、はや1週間が経ちました。みなさまいかがお過ごしでしょうか。

 今回は、東京大学本郷キャンパスにおいて、2017年9月30日(土)14時より行われた第18回研究会の内容をご紹介します。

 大塩量平さん(早稲田大学政治経済学術院助手)による「18世紀後半ウィーンの舞台芸術の社会経済史的分析――ヨーゼフ期(1776−1790年)の聴衆と劇場の需給関係を中心に――」と題したご報告でした。

 以下にご報告の要旨を掲載いたします。大塩さん、まことにありがとうございました!




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    18世紀後半ウィーンの舞台芸術の社会経済史的分析
 ――ヨーゼフ期(1776−1790年)の聴衆と劇場の需給関係を中心に――

               早稲田大学政治経済学術院 大塩量平


報告要旨

 報告者は、西欧中近世の特権層が独占していた舞台芸術(常設の劇場で演じられる演劇・オペラ・バレエ等)が近代になって広い階層・地域に浸透した社会経済史的経緯・要因を明らかにすべく、以下のような仮説を立てて考察を進めている。すなわち、経済史的に見れば18世紀末〜19世紀前半に特権層の規制・庇護から離れた劇場・劇団が不特定多数の聴衆の需要に自由に応じるようになり、また身分制的規制・慣習から自由になった聴衆も各個人で新しい観劇スタイルを模索し始めたことで、舞台芸術全体が自由な市場取引に基づく経済活動の性質を持つようになり、19世紀以降の急拡大につながった、というものである。報告者は舞台芸術の中心地の一つウィーンの18世紀後半、特に現代の舞台芸術の主要レパートリーの蓄積が始まった古典芸術の最盛期、皇帝ヨーゼフ2世の劇場改革期(1776〜91年、以下ヨーゼフ期)を対象に、上記の仮説の検証を試みている。
 既に報告者は、芸術学や文化史研究で十分に活用されてこなかったウィーン宮廷劇場会計文書の分析から、ウィーンではヨーゼフ期に宮廷劇場がその伝統的聴衆(貴族)に加え新たな聴衆(市民)をも取り込んだことで階層間区別のない聴衆層が形成され始め、更に民間諸劇場もそこに参入したことで、不特定多数の聴衆と諸劇場の間に自由競争的な市場取引に基づく需給関係が浸透した、と指摘した(拙稿「18世紀後半ウィーンにおける「劇場市場」の形成――宮廷劇場会計史料による需給分析」『社会経済史学』第77巻4号,2012年)。多くの聴衆が劇場に向かうこと、すなわち観劇需要が拡大することは供給(=上演)の拡大・多様化を引き出すことになるため、経済活動としての舞台芸術の展開の重要な原動力と見なしうる。そこで本報告は、聴衆層の拡大の経緯や背景、新しい聴衆の形態を論じつつ当時のウィーンでの舞台芸術の隆盛の社会経済・文化史的要因を、消費文化史研究の議論も用いつつ検討した。
 なお18世紀ドイツ語圏の文化消費者とは、同地域の消費文化史研究の草分けの一人である歴史家ノルトの言う、啓蒙思想を軸とする趣味の洗練やドイツ固有の芸術を追求する意識の下、芸術的・趣味的製品・サービスを観賞・購入し、種々の公共圏においてそれらを披瀝し批評し合おうとする人々を指す。そこには精神修養や芸術性の涵養を目指すという表面的な目的に加え、それを通して自らの知識や鑑賞力を顕示し合い互いの社会的位置を維持向上させようとする社会的目的も内包されていた。様々な文化・芸術ジャンルにおいて文化消費者が育ったとノルトは論じるが、例外的に観劇の場合は精神修養や芸術性を重視する「真面目な」演劇を求める文化消費者的な聴衆は後退し、各地で「娯楽的」なわかりやすい喜劇や音楽劇の上演が強化されつつ「商業化」が進展することになったとする。本報告は同じドイツ語圏でもウィーンの劇場文化は必ずしも彼の議論だけでは説明できないとの考えから、それとは異なる別の観劇スタイルの存在を明らかにするという側面もある。
 最初の分析として、階層(貴族、市民、その他都市住民)別のウィーンの聴衆の入場動向を、上記のようにノルトが提示したドイツ語圏全域の観劇の傾向と比較し、両者には共通点のほか重要な相違点もあることを論じた。共通点とは滑稽な喜劇や感傷的な演劇、そして音楽劇といったわかりやすく喜劇的な上演を好む聴衆が全体的に増加したことと、市民層が観劇スタイルを貴族のそれに類似させたことの2点である。この動きの直接的契機はヨーゼフ2世の劇場改革にある。これは啓蒙的娯楽の理想(=道徳心や規律の涵養、趣味の洗練といった精神修養と楽しみとの両立)の実現と公共の利益(=人々の労働を維持・促進するための心身の休養など)とに資する日常的娯楽をウィーンの幅広い階層に広めることを目的として、宮廷劇場においてドイツ語のいわゆる市民劇やジングシュピール――必ずしも全てが教養・芸術的ではなく多くは滑稽な笑いをちりばめ親しみやすい舞台だった――を、入場料値下げ(特に最低額席は大幅に下げられ下層の聴衆の入場が容易になった)や多彩な飲食物販売も行いつつ安定的に上演する試みであった。これは軌道に乗り、その結果、聴衆の階層ごとの観劇習慣の区別(観劇内容や場所、観劇スタイルなどの相違)が取り払われていき、熱心な非貴族の舞台愛好者らもその文化的拠り所を伝統的な貴族の社交・娯楽の場である宮廷劇場に求めることになった。当初の上演内容は気楽な笑いを誘うような娯楽的内容が多く、しかも大半は英仏伊の戯曲の翻案であったので、外国文化や古典の素養のある者もない者もそれなりの楽しみ方で舞台を見ることができた。もちろん貴族は宮廷劇場の変容(貴族のみが理解できたイタリアオペラやフランス演劇の市民向けのドイツ語演劇への転換や、非貴族の入場増加など)を歓迎せず、市民ら非貴族の聴衆を前にして自らの伝統的な観劇スタイル、すなわち上演中の顕示的な社交(会話や飲食、ゲームなどをする)を強調することで新参者との差別化を図ったが、市民らは入場を増やし続け、中でも社会的上昇志向の強い裕福な上層市民は貴族の近くに席を取りその観劇スタイルを模倣しようとしたほどである。逆に下層の都市住民――決して宮廷劇場への入場数は多くなかったが――は、宮廷劇場でも民衆劇の観賞と同じく熱心だが粗野な(=飲食や激しい野次や拍手を伴い熱狂する)鑑賞スタイルを維持した。そして主に中産市民らはドイツ語の芸術的な演劇に興味を持ち喧噪の中で少しでも舞台に集中できる席を確保しつつ静かに舞台に向き合った。こうして様々な階層が各々の観賞スタイルを持ちつつ同居し場内は熱気と賑やかさに包まれた。
 一方で、ドイツ語圏全域の傾向と異なる特徴はヨーゼフ期後期(1780年代半ば)に現れた。上記のように様々な階層がそれぞれのスタイルで観劇を楽しもうとしたが、それらの共存を妨げるほどにエスカレートした行為(壁や椅子、床を打ち叩き過激な口笛や喝采を送るなど)も目立ち始め、宮廷劇場は観劇ルールを設定し民衆的な観劇スタイルを禁じる動きを見せた。その結果、宮廷劇場でも飲食・談笑を控えつつ啓蒙的・芸術的な内容の上演を静かに鑑賞することで下層の聴衆から自らを区別しようとする貴族や中上層市民――80年代のウィーンでは彼らは貴族主催のサロンで芸術や学術に関心を絞り交流を深め観劇を共にしてもいた――が増え、それを受けてウィーン宮廷劇場は、他のドイツ語圏諸都市の劇場が減らさざるを得なかったその種の上演(特に悲劇)を逆に重視し、また飲食提供のあり方も見直した。さらに最低額席を再び値上げし下層の聴衆を金銭面でも宮廷劇場から遠のかせたことで、経済力と教養や芸術的関心の比較的高い社会的中上層が宮廷劇場に残ることになった。この傾向はドイツ語圏全体に広がったとされる観劇における「娯楽的観劇」とは対照的な、いわば「文化消費的観劇」と言え、ウィーンの特徴と見なしうる。これらの背景には、劇場改革により宮廷劇場以外の上演活動への規制がウィーンで撤廃されたことで1780年代には民衆劇の伝統を受け継ぐ大衆娯楽的な滑稽劇を展開する民間劇場が相次いで設立されたことがある。すなわち劇場の増加によって劇場間での「すみ分け」が可能になり、宮廷劇場には文化消費的な上演を求める聴衆が多く集まり、逆に民間諸劇場には宮廷劇場を好まなくなった聴衆(=ノルトの言う「娯楽的」上演の聴衆)が通うようになっていた。
 しかしこうして宮廷劇場内では分離した聴衆層は、その外では再び融合する動きも見せた。次第に主要な民間劇場は民衆劇のみならず宮廷劇場の人気演目も独自の演出で舞台に掛けるようになり、宮廷劇場の聴衆の中にも民間劇場に通い、宮廷劇場と同じくドイツ語演劇・オペラを熱心に、あるいは社交をしつつ鑑賞する(すなわち一般的な民衆劇の聴衆とは異なるスタイルを取る)者が出てきたのである。しかも同時代の記録から、彼らはそうした上演のみならず民衆劇的な滑稽物も楽しんだことがわかる。つまり少なからぬ聴衆が観劇のあり方、すなわち劇場や上演内容、観劇スタイルを自らの好みや社交の都合などに合わせ自由に選択し楽しむようになっていたのである。
 以上から、ウィーンではノルトの議論と同じく「娯楽的」観劇が幅広い階層に浸透した一方で、特に貴族と中上層市民を中心に文化消費的観劇も同時に拡大したという別の側面も存在したと言える。しかも両傾向は決して分断されておらず、各聴衆、特に後者の聴衆は自由にそれらを選択し得た。このような観劇のあり方の複雑さにこそウィーンの舞台芸術の隆盛を経済的に支えた観劇需要の拡大の要因・背景を読み解く鍵があると考えられる。そこで次に、ウィーンの文化史研究(Gerhard Tanzerおよび山之内克子の研究など)で論じられてきた娯楽の変容・近代化の議論に観劇を位置づけつつ、とりわけ文化消費的観劇の増加の背景や要因を検討した。
 文化史研究では18世紀後半のウィーンの娯楽の変容は以下のように論じられる。当時の君主マリア=テレジアや特にヨーゼフ2世は、社会の様々な局面から身分制的区別を解消(「平準化」)すると共に、人々の心性から伝統的共同体の形骸化した慣習や宗教的盲信を除去し、公共の福祉および国家のために理性的に思考・行動する臣民の育成を目指して社会文化面での諸改革を進めた。特に娯楽に関しては、民衆の秩序破壊的かつ祝祭的な傾向が強い中世以来の伝統的娯楽(教会行事や街中のトラブルに積極的に加わり非日常的な騒擾を楽しむことや、日常の労働を中断し祈祷や飲食休憩に赴くこと、夜間や休日の過度の飲酒飲食など)や、宮廷社会におけるヒエラルキーを顕示・再確認するための大規模で華麗なバロック的スペクタクルを後退させ、かわりに散策、適度の飲食、様々な人々同士の語らいといった、他のドイツ語圏諸都市では啓蒙貴族・市民が自発的に始めていた理性的で平準化された娯楽を制度化し、それをあらゆる階層に「上から」提供することを目指した。その典型的事例は皇室の緑地の一般開放およびレジャー施設化である。ここではあらゆる階層の人々が秩序を乱さぬ限り自由に振る舞い余暇を満喫することが推奨され、洗練された趣味から祝祭的な民衆娯楽の系譜を引くものまで様々な楽しみ――自然の中での散策やピクニック、多彩な飲食店、花火や気球ショー、様々なアトラクションやコンサート等――が民間業者によって商業的かつ日常的に、そして秩序をもって提供された。身分・位階に基づく区別・強制がなされず、各自がそれぞれの嗜好や社会的評価の理想像に応じたスタイルで自由に楽しめる日常的娯楽の現出をウィーンの人々は歓迎し、各業者も利益追求のため創意工夫を凝らしたので、18世紀末にはウィーンの人々は個人の趣味と経済力に基づき多彩な娯楽を判断・評価し始め、それらに対価を払いつつ受動的かつ整然と享受する「消費者」となった。こうして文化面での平準化を進めるヨーゼフ2世の改革は一面では達成されたと言えるが、それに代わる新たな、現代にも通じる社会的差異化が「消費」スタイルの相違を巡って進んだ面もある。
 ヨーゼフ期の観劇でもこれと同様な流れが生じたと言える。新しい娯楽機会としての観劇習慣を定着させるために開始された劇場改革は、劇団への上演規制をなくし聴衆の鑑賞機会を均等化するという点で舞台芸術の自由競争を促進した。その結果、どの劇場(ヨーゼフ期は宮廷劇場も全く同様)も経営効率を追求しつつ主にドイツ語の各種演劇やオペラの上演を巡って相互に競合する動きが広まり、聴衆も前述のように様々な観劇スタイルをとりながら劇場に向かえるようになった。その際、従来は身分によって分かたれていた聴衆区分に変化が生じ、1)社交を優先する貴族の観劇スタイル、2)民衆劇的な主に下層民に多い粗野なスタイル、3)静かに舞台を鑑賞する中産市民に多い静粛な観賞スタイル、という従来は決して同居することのなかった三つの伝統的タイプが宮廷劇場で観劇機会を共有したり、4)一部の貴族と中上層市民が共に真剣に舞台を鑑賞し教養や趣味の洗練の度合いの異なる聴衆との差異化を図ろうとする「文化的エリート」が第四のタイプとして新たに生じたりした。文化的エリートは都市全体からすれば僅かな割合とはいえ、ウィーンは人口規模が大きい(19世紀初頭まではドイツ語圏最大の人口数を有した)上に貴族層や官吏層が非常に厚いため、それなりの規模の聴衆層となり、第三の観劇スタイルを取る聴衆と共に「文化消費的聴衆」を形成し、ドイツ語圏他都市では後退した非娯楽的ジャンルの存続・拡大を可能にしたと言える。
 以上から、観劇の需給関係に大きな変化が生じたと言うことができる。ヨーゼフの劇場改革によって上演の選択肢が豊富に提供され、人々もそれを自由に鑑賞できるようになったことで、それまで身分・階層や共同体ごとに行動を共にしていた人々の間にも経済力や嗜好の相違が顕在化した。しかも観賞ルールやマナーの設定によって、劇場内での舞台鑑賞以外の楽しみ方(大声での社交や飲食など)が、消えはしないものの徐々に重要性を低下させた。それらの結果、文化消費的聴衆は上演内容へ集中する(あるいは舞台鑑賞以外の行為がしにくくなる)傾向を強め、それのみならず他の聴衆も複数の民間劇場が多彩な上演を提供し始めたことで、各劇場間の上演内容(と入場料)の相違を自然と意識することになったはずである。それゆえ、観劇は主に「舞台鑑賞そのものへの需要」に動機づけられるものへと純化されはじめた。聴衆はもはや劇場を、社交やギャンブル、種々の飲食や激しい喝采や野次など様々な気晴らしが一度に味わえる、音楽や笑いに満ち雑然としたいわば「複合アミューズメント施設」と見て寄り集まってくるのではなく、舞台鑑賞を主目的にした「舞台の消費者」として集まってくるようになったと言えよう。さらに、こうして観劇における共通かつシンプルな判断基準が形成されたことで、劇場にとっても自らの得意とする上演内容を強調していくことが集客力向上につながることになったはずである。多様な上演者と多様な聴衆層という両者が相互に作用したことで多層的な需給関係がヨーゼフ期ウィーンで生まれ、それが多彩な上演をウィーンで一層発達させる重要な経済的基盤になったと言える。
 本報告は、聴衆の嗜好や観劇姿勢、聴衆の階層構成や規模の変化を解明し、当時のウィーンでは観劇が伝統的役割(娯楽や社交の場)に加えて「文化消費の対象」としての意味をも有するようになったことを明らかにした。今後は劇場の上演および経営サイドに着目し、聴衆層の変容への対応や上演姿勢の変化などを検討した上で、ウィーン全体から成る活発で自由な舞台芸術の需給関係が生じ現代ウィーンの舞台芸術の社会経済史的原型が形づくられたことを論じていきたい。