音楽と社会フォーラムのブログ

政治経済学・経済史学会の常設専門部会「音楽と社会フォーラム」の公式ブログです。

2010年11月の「音楽パネル」

  2010年11月13日・14日に首都大学東京で開催された政治経済学・経済史学会2010年度秋季学術大会において、「音楽」という本学会では異色ともいえるテーマにかかわるパネル・ディスカッションが企画されました。一部の者たちの間で通称「音楽パネル」と呼ばれるそのパネル・ディスカッションは、大会初日の午前中に行われ、報告者たちの予想を上回る数多くのみなさまにご参加いただきました。本パネルに対する反響、とりわけそこでの討論と、出席者のみなさまにいただいた、答えきれないほどの多くの、そして多岐ににわたるご質問が、この「音楽と社会フォーラム」設立の一つの重要な契機となりました。以下では「音楽パネル」の「報告要旨」を掲載いたします。

               音楽を成り立たせる条件
 ―20世紀の音楽現象における商業的要因とイデオロギー的志向性―*1

 このパネルは現代(ほぼ20世紀)を対象時期として、音楽を成り立たせている社会的な諸条件と主体的な条件の関係を解明することをめざす。音楽を成り立たせている社会的条件といっても、経済的条件、政治的条件、文化的ないし社会心理的条件など多様だし、音楽の社会的機能・用途がそれら諸条件に共通に作用していると考えることもできる。このパネルでは、これらのうち経済的条件を取り上げる。20世紀は再生技術の発達やラジオ・テレビ・映画との結合を通じて、また大衆文化状況が世界で同時代的に展開する中で、音楽の商業化(市場向けに音楽が生産・供給され、買われ、消費されるようになること)がすみずみにまで行き渡った時代として知られている。この点で20世紀の音楽は、典型的には18世紀のヨーロッパに成立していたパトロネッジという経済・政治・文化的な複合条件からの「解放」が終了し、より「自由に」展開しうる条件を獲得した。そこで、このパネルは、音楽を成り立たせている諸条件のうち、とくに商業的な要因に注目する。
 主体的条件としては、音楽家の技倆や聴衆の音楽経験といった問題もあるし、人々に共有された暗黙の音楽的価値観がその時代・社会の音楽の様式や流行に作用しているということもあるが、ここでは音楽に対する欲求に注目する。完璧な市場社会を想定するなら、人は売り買いを通じて欲求を充足するから、市場とそこでの人々の行動を観察すれば、いかなる欲求があり、それがどのように満たされているのかが判明するはずである。しかし、音楽では市場は欲求充足の空間であると同時に、音楽的な欲求を制約する最も大きな要因であるとも考えられている。そうだとすると、音楽に対する欲求は市場を見るだけではわからないことになる。ただし、音楽に関わる主体は音楽に対する欲求を必ずしも明瞭な概念として表明するわけではないから、市場には反映されない欲求を知るには工夫が必要である。このパネルでは、音楽主体の言説と行為に注目して、そこからイデオロギー的な志向性を再構成するという手法を採用する。イデオロギー的志向性とは言い換えるなら、音楽に関する価値観の体系であり、必ずしも概念化されていない音楽思想といってもよい。
 では、商業的要因とイデオロギー的志向性という二つの条件の関係をどのように把握すべきだろうか。近代西洋音楽を対象にした音楽社会史は二つの条件の間に以下のような二通りの補完関係を発見してきた。第1はパトロン没落後の音楽生き残り戦略である。社会変動の中で旧来のパトロンが没落した後に、音楽(より正確には職業的音楽家たち)は生き残るために音楽を商業化して大衆的需要を掘り起こさなければならなくなったのだが、大衆を音楽市場に動員するためには、たとえばナショナリズムとか芸術至上主義などのイデオロギー的主張が必要となったという仮説である。第2は階級闘争戦略で、パトロンの政治的・文化的支配から離れて音楽がイデオロギー的自由を獲得するために、政治的・文化的な横槍抜きに金銭のみを支払う市民に依拠した商業的な音楽へと自ら変貌していったという仮説である。むろん、それは単に商業化だけでなく、市民が金を払いたくなるような音楽という意味で、「ブルジョワ的な音楽」への変貌をも意味していた。
 このパネルはただちにこうした19世紀的な補完関係に回収できるわけではない。むしろ、音楽の商業化が徹底的に進行した20世紀の音楽家たちは、しばしば、自分たちの求める音楽を阻む最大の要因は商業主義であると、売れないことが音楽が本物であることの証しであるとすら考えてきた。しかし、この時代にあって売れずに音楽を続けることは絶望的に困難であり、受け手・聴衆にとっても市場を介さずに音楽的欲求を満たす機会はかなり限定されている。それゆえ、正負両極の商業主義的な言説(「売れれば正義」/「売れるのは偽物」)を相対化しながら、商業的要因とイデオロギー的志向性の間に成立した関係を明らかにしなければならない。音楽主体は自らの欲求を満たすために商業的要因といかに関わろうとしたのか。この問いを具体的に検討するために、このパネルは20世紀の音楽現象から以下の三つの特徴的な事例を取り上げる。ドイツ史と音楽社会史で活躍している松本彰氏のコメントを踏まえて、活発な討論が展開することを期待したい。
 第1報告「アラン・ブッシュの階級的・前衛的音楽運動の理論と実態 ―イギリス労働者音楽協会の創立期に注目して―」(小野塚知二)は、18〜20世紀ヨーロッパの「ブルジョワ音楽」からの脱却を意識的に追求した戦間期の事例をあつかう。アラン・ブッシュ(1900-95)はロンドンの音楽院を修了後、その作曲学の教授職に就いた専門的な音楽家であり、同時に、共産主義の理想から労働者音楽運動を率い続けた人物でもある。ブルジョワ音楽の硬軟さまざまな分厚い伝統を打破して、プロレタリアートの真に階級的かつ革命的な音楽を創造しなければならないという彼の音楽運動は、強烈なイデオロギー的志向性からブルジョワ的要素を音楽から排除しようという極めて明確な主張の実践であったように見える。
 しかし、この主張は理論と実態の両面で裏切られていた。ブッシュによれば、ブルジョワ音楽を乗り越える階級的かつ革命的な音楽とは、①ブルジョワ的な上演形態を否定し、②労働者の政治的メッセージ(歌詞、標題、上演の場のスローガンなど)が付与され、③作曲家・演奏家ともに労働者の側に立っており、しかも、④純粋に音楽的な面でも、ブルジョワ音楽の頂点を特徴付けてきた個人の主観的感性に立脚するのではなく、合理的で客観的な作曲技法のうえに創造されたものである。①〜③は音楽を成立させている社会的な諸条件の変更、すなわち労働者音楽運動の発展により確保できるが、④は音楽固有の要素を文字通り革命的に進化させることを意味する。若いブッシュは、シェーンベルクらによって開発された十二音/セリーの技法を発展させることでこの客観化・合理化がが可能と考えたが、それは大衆的に受容される音楽ではなく、彼の盟友たちも彼自身も、よりわかりやすい技法を温存させたうえで、情緒的要素は出来る限る削ぎ落とすといった20世紀の作曲家の多くに共通に見られた折衷的な方向を選択せざるをえなかった。
 また、運動の実態においても、受け手に音楽を届ける手段として、公開・有料の演奏会、書籍、楽譜、レコードなどの商品化された形態を排除するどころか、積極的に利用した。運動が唯一利用できなかったのは、放送という権力的に統制された媒体だけである。また、ブッシュ自身が自作、殊に管弦楽曲やオペラのように大規模で費用の嵩む作品の初演では、盟友のアイスラーを通じて東ドイツの音楽資源を利用することで、商業的な困難を回避したのだが、その上演形態はまさにブルジョワによって開発されたものを墨守していた。
 このように商業的要因とブルジョワ的伝統に依存した運動を、生硬な政治主義に引き摺られたものと評価するのはたやすいが、それは広範な基盤に支えられて1960年代までは大きな勢力を維持していたし、現在も存続している。労働者音楽協会の運動は、芸術至上主義を文化的な階級支配の道具と考える立場から独自の音楽教育を展開していた。そこでは、上から商業的に提供される音楽を消費する=聴くだけではなく、自ら演奏し、作曲・編曲する力を付与することによって、自らの階級的・政治的な主張を音楽の語で表現できる主体を形成することが目指されており、非商業主義的な選択肢を提供していたのでもある。
 第2報告「南インドのタミル音楽運動にみる言語ナショナリズムと芸術至上主義 ―音楽の享受をめぐって―」(井上貴子)は、1940年代初頭に南インドで起こったタミル音楽運動をめぐる議論を取り上げ、そのイデオロギー的言説が当時の社会変動のなかでどのような意義をもち、経済的条件といかに関わりあっていたのかを検討する。
 タミル音楽運動とは、南インド古典音楽作品の歌詞の多くがテルグ語サンスクリット語で、タミル語母語とする人々には歌詞の内容が理解できなかったことに対し、タミル語の歌の育成と普及を掲げた運動である。従来、この運動は、反バラモン・反アーリヤ・反北インドを打ち出す地域政党である正義党の主導で推進されたドラヴィダ運動と呼ばれる政治潮流との関わりで捉えられてきた。1937年、当時マドラス州政府与党であった国民会議派の州首相ラージャーゴーパーラーチャーリは、教育へのヒンディー語導入を決定し、これに対して正義党は大規模な反ヒンディー語キャンペーンを打ち出した。以来、ドラヴィダ運動と言語ナショナリズムが結びつくことになった。
 タミル音楽運動が、ドラヴィダ運動によるタミル・ナショナリズムの高揚をきっかけとして勃発したことは確かであろう。しかし、これを当時の政治潮流の一環としてのみ捉えるならば、重要な側面を見落としてしまうことになる。第一に、タミル音楽運動推進派には国民会議派の主導する全インド的なナショナリズムと協働するバラモンが多数含まれていた。当時、発行されていた主要タミル語雑誌のジャーナリストや小説家、タミル語学者にはバラモンが多く、州首相自身もその一人であった。第二に、反対派は、特定言語による音楽の育成が他の言語を圧迫するコミュナリズムをあおることへの懸念を表明しながらも、優れた音楽は音楽そのものに芸術的価値があり、言語を問題にすべきではないと論じた。第三に、推進派も、運動の本質は理解可能な言語による音楽を聴きたいという素朴な欲求であり、運動に政治対立を持ち込まないと表明した。すなわち、反対派・推進派ともに芸術至上主義を持ち出すことで解決を図ろうとしたのである。また、論争に積極的に加わったのは、音楽家ではなく愛好家や評論家・学者たち、すなわち音楽を享受する側の聴衆であったことも重要である。
 では、彼らが芸術至上主義をアプリオリなものとして持ち出すのはなぜか。イギリス支配下で、地方領主層をはじめ従来の古典音楽のパトロンたちの多くが没落し、行き場を失った音楽家は、民族資本家や官僚など知識人を中心とした新興中間層が多く居住するマドラスに集まった。19世紀末ごろから、このような音楽家の受け皿となる音楽協会が続々と設立され、公的なコンサートや会議を開催するようになった。会議では、常に音楽の保護育成、そのための音楽教育の普及と研究の推進が決議された。音楽振興にとって最も重要なことは聴衆の育成であり、そのためには音楽教育を導入し、音楽研究を推進して教科書を作り、音楽の芸術的価値を絶対視するイデオロギーを普遍的に共有させる必要があった。
 以上、タミル音楽運動を当時の社会変動のなかに位置づけるためには、聴衆を分裂させるナショナリズムとの関係性の側面に加え、それを調停する政治的ツールとしての芸術至上主義のイデオロギー的有効性の側面からの分析が有効だと考える。
 第3報告「へヴィ・メタル市場の成立とその定着 ―1980年代なかば、HMがアメリカン・ドリームであった頃を中心に―」(枡田大知彦)の課題は、へヴィ・メタル(以下、HM)という一つの音楽ジャンルが成立し、その市場が定着していく過程を検討するところにある。そもそも音楽を対象としたパネルが本学会の大会に登場すること自体が実験的な試みだが、音楽の一つの極をなすHMをあえてとりあげるのにはいくつかの意味と理由がある。
 まず今回は第一歩であるので、20世紀を特徴づける、何か突出したジャンルを対象とすべきという意図である。また、作り手であれ受け手であれ、流行り廃りに大きく左右されずに、自らの感覚(のみ)を信じる者たちで構成されたHMのシーンおよび市場が、現在でも日本を含む多くの地域で厳然と存在しており、この状況が今後もおよそ揺るぎそうにないという事実である。このことは、音楽を成り立たせる商業的要因に光をあてる本パネルの格好の対象として、HMを捉える重要な要因となった。
 イデオロギー的志向性の面でもHMは興味深い対象である。例えば日本において、普段積極的に音楽に接しない、あるいは音楽に興味がない者でも、HMの「存在自体」は知っているという者は少なくない。彼らにとってHMは、多くの場合、嘲笑あるいは嫌悪、侮蔑等の対象としてのみ存在する「もの」である。HMは、いかなる過程を経て、「音楽」でありながら「聴かれず」に(あるいは一聴で)評価されるという、かくも「特異な」地位を獲得したのであろうか。
 HMが音楽の一ジャンルとして認識され始めたのは、一般に1970年代末にイギリスで展開したNew Wave of British Heavy Metalのムーブメントの頃とされる。この点に異論はないが、本報告は、1980年代なかばのアメリカのシーンを対象とする。この時期に西海岸を中心に展開したLAメタルのムーブメントが、社会におけるHMの認知、HM市場の定着という意味で、決定的な契機と思われるからである。当時のアメリカでは、HMを志向することを自認したアーティストによる作品の多くが、全てのジャンルを対象としたナショナル・チャートでトップ40、場合によってはトップ10入りを果たした。これに共鳴する形で、イギリスあるいはドイツ等から発せられたHMの範疇にある作品が全米チャートを席巻し、日本を含む多く国のHMバンドがアメリカでの「成功」を現実的な目標に設定した。LAメタルのムーブメントは決して長くはなかったが、このとき、アメリカや日本、ドイツ等において、多くの若者がHMを特別なものとしてではなく「普通に」聴く(たしなむ)状況、それが明確にビジネスの対象となりえた状況が成立していたことは疑いない。
 本報告では、HMがLAメタルという形をとって商業的な成功を収めた80年代なかばアメリカのシーンを中心に、HMの作り手の志向性、受け手の意識(その集合体であるシーンのあり様)、そして多くのHMに直接触れることのない者たちで構成される社会の状況という三者の関係―とりわけ重なりとズレ―を解き明かすことを通じて、HMなる「音楽」が社会に位置づいていく過程およびその諸条件について検証を試みる。

                           

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 その後、若干の紆余曲折を経て、この「音楽パネル」における報告者(小野塚、井上、枡田)、コメンテーター(松本)、司会者(山井)が、「音楽と社会フォーラム」の世話人となることになります。

*1:『2010年度政治経済学・経済史学会秋季学術大会・総会 報告要旨』13-16頁に同内容の文章を掲載